ここでは私が読んだ本の内容を忘れないようにするため、ふとした時にどんな内容だったかを軽く見直せるように、また、アウトプットの場として気の赴くままに書いています。
*** ""部分は引用です。
人間の知覚、視覚など、さらに記憶もとても儚い(弱い、脆弱)なものである。それらは昔の記憶や知識、または外界からの刺激や相互作用などで絶えず変化している。それらはコンピュータの記憶システムとは異なる構造・機能だとわかる。 人間は思考して、問題解決、推論、選択をしている。これらは数学的、論理学的には同型でも、表現を変えたり、ある意味付けをする事で解決までにかかる時間や、解決率が大きく変化する。つまり、人間は同型な問題でも、解決方法(スキーマ)を複数持っていることになる。状況に応じて、適切なスキーマを用いることで解決に繋がる。ここで重要なのは、ただ1つのスキーマを用いているのではないということ。意識的には1つでも、無意識で複数のスキーマを用いている。無意識スキーマは強度が強まると意識スキーマとなる。このように、思考は絶えずゆらいでいる。このゆらぎが思考の発達に繋がる。この点も人間とコンピュータの思考システムとで異質な点である。コンピュータは与えられたプログラムを繰り返すだけである。一読しただけではまとまりません。
著者ウォーラスは、人類史上かつてないほどに思考が必要とされている時代だと語る。その上で、どうすれば思考や知的生産力を向上させられるのかを詩や哲学、政治から主に考察している。思考には4段階ある。準備、培養、発現、検証である。準備は問題解決のための前提となる知識や、その周辺の関連事項の勉強である。培養とは、意識的にその問題について考えないようにすることである。この状態でも無意識のうちに思考は培養(成長)する。発現は、培養された思考が意識レベルに到達することである。培養は無意識なので、発現は不連続に起きるものだとしばしば誤認される。検証は発現した思考を確かめて、確信を持つことである。この中では、特に培養、発現が重要である。発現の前段階として、予兆がある。詩人は予兆を短い文に表す。著者は詩人のことを讃えている。培養は短時間でよいものから長時間必要なものもある。現代の小中高では、はたしてその培養の時間が確保されているだろうか。最後に著者は教育のあるべき姿についても考察している。超要約,頭を使い始める時間を固定して、習慣化せよ。毎日4時間はガチ集中で頭を使え。暇な時は受け身で読書をするな
第1部では文化大革命で父親を亡くした文潔は苦労の末、太陽に向けて超高出力レーザーを放ち、遠く離れた三体文明にメッセージを送信した。これが引き金となり、生物の生存環境としては劣悪な三体星系から三体文明の宇宙艦隊が地球侵略のため地球へと向かった。最初の艦隊が到着するまであと約2世紀である。第2部のテーマは宇宙社会学であり、人間の意思を許さない自然科学と意思で成り立つ社会学が融合。フェルミのパラドクスへの解答の1つである黒暗森林理論をたった2つの公理と2つのヒントから見事に構築したルオジー博士。個人的に第二部が最高でした。第3部は、黒暗森林攻撃を防ぐためには全宇宙に地球文明は安全だと通知しなければならない。しかし、この安全通知はどうすれば良いのかわからない地球文明。ここで再び学問が交わる。今度は自然科学と人文学。宇宙の彼方、三体文明のもとで暮らす雲天明は二層メタファーを用いた3つの物語で安全通知の方法を地球にいる恋人、程心に伝える。この安全通知の方法が、一物理学徒としてとても興味深いものだった。それは光速を小さくして事実上のブラックホールを作り、その中に太陽系を収めるというもの。しかし人類はその選択肢を選ばず、、、
死神永生において、 1、三体文明に捕えられた雲天明はどんなことをされていたのか。 2、高次元のかけら、指輪、智子ブラインドゾーンなど、これらは何だったのか。雲天明に宇宙♯647を与えた存在は何なのか。いよいよ全宇宙における二項対立が判明。 こっからは死神永生の続きとも言えるし、「起きるかもしれない可能性の世界」または「並行世界」と解釈して良い。劉氏が書いたものではないので、解釈は読者次第。 3、宇宙は元々10次元空間であった。これをパーフェクトワールドという。光の速さは無限大であり、したがって時間という概念は存在しない。(しかし因果関係は成り立つ。)時間を求めて、パーフェクトワールドのある存在者が統治者(マスター、宇宙を作った者)に反逆し、宇宙を低次元化する。統治者の使いとなった雲天明が、反逆者が作った文明(太陽弾きとか出てきたけど、そいつら。星淵族という)を滅ぼし、隠れていた反逆者を見つける。そして統治者が反逆者もろとも、宇宙を次元逆転させ、パーフェクトワールドに戻す。しかし統治者と智子が雲天明と程心をだまし、、、 4、パーフェクトワールドは低次元化される運命にある。またもや低次元化が進み、ついに3次元宇宙が誕生し、太陽系文明元三体文明など、前宇宙と同様に勃興する。しかし智子によって、前宇宙とは微妙に異なる宇宙になった。現三体系は安定した星系。地球では紅岸基地は作られなかった。つまり太陽に向けて強力な電磁波を当てて宇宙全体に地球文明の存在を放送することもない。史強は任務中に死亡し、ルオジーに会うこともなかった。しかし、(前)雲天明(現在の名は劉)は智子によって前宇宙での出来事を伝えられる。智子によれば、雲天明にしてもらいたいミッションはまだまだあり、それによってより良い宇宙ができるという。雲天明は静かに一般人として暮らしたい。そこで智子は、まずは雲天明が得意とする小説を書いてみたらどうかという。雲天明は前宇宙の出来事を思い出し、筆をとる。 「宇宙往時」 第一部 三体、、、、
未書
いわゆる「未知とのコンタクト」の物語だが、彼らと意思疎通可能な場合や戦争に発展する場合というステレオタイプではない。著者レムは人間形態主義を批判しており、将来地球外の生命体が発見されるならば彼らは地球文明とは似ても似つかない、全く異質な文明を発展させているだろうと考えている。我々は危険を顧みずに彼らの文明を理解しようと接触を試みるだろう。紋切り型のストーリーでは、どちらかがもう一方を撃退したり征服したりする。または意思疎通をして平和的交渉をするかもしれない。これらは人間形態主義の範疇である。レムはこれらを批判し、実際の地球外生命は地球人とは全く異なる文明であり、意思疎通はもちろん彼らの動きの意図も理解することもできないし彼らの構成体すら我々の理解を超えているかもしれない。このような場合、どんなことが起きるであろうかをレムは物語という形で一例を示してくれた。ある批評家はこう言った。『ソラリス』では、「意味を持った要素は各々全て、あらゆる意味を持った別の要素に対応づけられる。こういった意味で、ソラリスは鏡の世界なのである。」
筆者はこう語る。「数学とは非常に論理的な学問であると同時に、非常に直観的な学問でもある。数学が苦手な人はおそらく直観的な理解が苦手な場合が多い。論理的には筋が通っていても、肝心の直観的理解(全体像把握)ができなければ腑に落ちないからだ。逆に数学が得意な人はロジックに強いのはもちろん、ひらめきや直観による総合的把握能力にも優れている人だと言えるかもしれない。」
・言葉・発言の重みについて
著者「政治にしても経済にしても文化にしても、そこに携わっている人たちの言葉が軽くなっている(と感じる)。じっくりと洞察し、深く考えたところから発した言葉に触れる機会が、以前よりぐんと減っているのを感じる。このことは現代人の読書時間が極端に減ってきていることと、決して無関係ではないと思う。」
私「なぜ読書をしなければ、言葉・発言が軽くなるのか?軽くなるとはすなわち、深く考えられた結果の言葉ではなく、思いつきや浅い思考によって発せられること。読書では「書き言葉」を読む。言葉は大きく分けて「話し言葉」と「書き言葉」の2種類がある。明らかに深い言葉は「書き言葉」である。なぜなら書き言葉は目に見えるので間違いや意味的におかしな部分に気づきやすく、洗練されていくからである。現代の話し言葉は、レベルで言うと小学校の書き言葉レベルだと言われている。つまり、全く読書をしない人は必然的に書き言葉に触れる機会を失い、多くの意味・内容を包含している文章に出会わない。レベルの低い文章だけで生活していたら、レベルの低い文章・語彙しか使えなくなる。その結果、深い思考ができなくなる。言葉は思考の材料だからである。その意味で読書は、この世界で書き言葉によって書かれた文章を提供してくれるありがたい行為である。もちろん、仕事の文書などでも書き言葉は用いられるが、それはほとんど型が決まっている。読書とは幅の広さが桁違いである。
・ある大学生「読書が生きる上での糧になると感じたことはない。読書はスポーツと同じように趣味の範囲であって、自分にとってはアルバイトや大学の勉強の方が必要。」
ある中学生「読書は試験に役立たない。役に立つかわからない効率の悪いものに時間を削ることはない。」
→皆さんの考えはどうか?ぜひ聞いてみたい。私は、読書はRPGゲームなどで道に落ちているアイテムに似ていると考えている。拾った時はすぐには役には立たないが、ゲームを進めていくと必要な場面に遭遇するかもしれない。同様に、読書も読んだ時すぐには役に立たないが、生きていくと読んでおいて良かったと思える時が来るかもしれない。このアイテムを拾ってもすぐには役に立たないだろうと思って拾わない人はおそらくいないだろう。これは上の中学生に対しての反論である。大学生に対しての反論もしてみよう。私は学部3年まで教職課程の講義を受けていた。その中の1つに、総合的な学習の時間についての講義があった。その中で、どんな職業の人でも一流の人は言語能力に優れていると学んだ。例えば、イチロー選手やダルビッシュ選手は野球だけ上手いのではなく、インタビューを見るとわかるが話すのがとても上手である。とてもわかりやすく話している。人前で、首尾一貫・無矛盾・わかりやすく話すことは意外と難しいことである。もちろん慣れているからというのもあるかもしれないが、それでも相手に伝わるように、しかもダラダラとではなく要点をまとめて話すことはそれなりに高い言語能力が必要である。会社員でもいくら良いアイデアが頭にあったとしても、会議でうまく言語化できずにその魅力を伝えることができなければ意味がない。アルバイト・大学の講義の方が大事だという気持ちもわかる。それはすぐに結果が出るから優先してしまう。それは間違いではないが、各分野で出世するには高い言語能力があった方が良い。よほどの天才であれば必要でないかもしれない。しかし多くの人は凡人である。ならば読書をして高い文章力・語彙力を身につけることは必ず将来に活きるのではないだろうか。
他文明のものと思われる宇宙飛行体に潜入、調査する話。結局、向こう側の生物と接触することは無かった。調査中、飛行体内部にあった凍った海が、太陽への接近とともに融解し、ほんの3日程度で「カニ」や「クモ」のような怪物が生まれてきた。こいつらは内臓を持たない。解剖してみると体内には大量の電池が。なるほど動力源は完全に化学エネルギー。したがって人間はこいつらを非生物型生命体(バイオット)と名付けた。なぜか人間はバイオットに見向きもされなかった。 水星に住む人間(水星人)はこの飛行体が太陽系の危険因子と見做して、ミサイルを打ち込む。潜入調査のリーダー、ノートン中佐は破壊的行動は極力避けたい(宇宙戦争などしたくない)ので、ミサイルを事前に止める。ノートン中佐のおかげでこの文明は助かる。 最終的には、飛行体は太陽に大接近して太陽エネルギーを補給。宇宙の彼方に飛んで行ってしまった。彼らは太陽系を支配しようなんて気は毛頭無く、エネルギー補給地点としか考えておらず、より重要な目的のためにまた何十万年も宇宙を漂う。 平和すぎてそんなに面白くなかった
この本は第1部と第2部に別れており、1部は人間がする哲学と哲学者がする哲学について書かれている。2部はその哲学が現代社会とどう繋がってくるのかが述べられている。『人間は生きる意味といったものを求める限り、科学技術だけでは満ち足りないのみならず、それに科学を加えてもまだ不足である。生きる意味を求める人間は、哲学という場を得て初めて安らいうるのであって、その際には、後述するように、科学もまた、哲学に導かれて、人間にとって並々ならぬ意味を持つものである。』科学と科学技術はそれらに携わる人でなければ混同してしまう人も多いだろう。しかし、意味は明確に異なっており、後者は前者から生まれるものである。さらに、科学技術は文明にとって役に立つこと(しばしば結果的に残念なことに使われることもあったが)を目的としているのに対し、前者はそれを必ずしも目的としない。アインシュタインは戦争のためにE=mc^2を発見したのではない。生きる意味とは、結局のところなんなのだろうか。歴史に名を残すため?人類のため?社会に貢献するため?家族の幸せのため?もっと動物的に「子孫を残すため」?
音楽用語がさっぱりわからない。アレグロってなんだ?オペラとは?オーケストラとは?もちろん何度も聞いたことはあるが、しっかりした定義がわからないので読み進めるのに苦労する。"彼は人生でも決して後戻りする人間ではなかった。神はその道を坦々たる安易なものとしては与えなかったが、彼はそれに忠実に服従しながら、まっすぐ歩いていった。そのように彼の音楽も、自然な紡ぎ方の点で抜群である。ただ、その中で彼は異常な方向転換の不意打ちをいくつも用意している。一点への凝集と、おびただしい不意打ちとの共存は、彼の音楽にたいへん独自の風貌を与える。"音楽評論家は言語とは別次元にあり、感覚でとらえるのが普通である「音楽」を人類共通の言葉に翻訳している。この点に於いて、自分が考えていることさえ言葉にするのが苦手な自分はとても刺激をうける。同時に「言葉」のパワーも改めて認識することができる。解説なしで聴く音楽と解説を受けてから聴く音楽では感覚的に異なるものに聞こえる。やはり観念が言語を創るのではなく、言語が観念を創るのである。
・意地悪な人「袋の中に100個の黒い石、1個の白い石が入っている。白を取れたら助けてやる。」(実際は101個全て黒にしてある)
柔軟な人「取り出した石を飲み込んでしまいました、残りの石を確かめてください。」(実は全て黒ということを事前に調べておいた)
つまり、残りの100個は全て黒なので、取り出したのは白という結論になる。押してダメなら引いてみろ。正の方向で証明できないなら負の方向で証明すれば良い。実験屋としては常に頭に入れておかねばならないことである。
・"近頃の文化が表現の衰退を示している証拠は、〜〜 ただ「どぎつく」いうより他に知恵がない。程度の高さを表現するのに、量的な強さだけで済ませて、質的な差異を消してしまう。ひどく機械的な誇張ばかりが幅をきかせて、誇張に中身が無くなってしまった。"
・"若者が生きる世界は等質的になり、その等質性に若者は順応している。友人に何かを伝えるにしても、その友人もまた等質性の世界にいるのだから、質的な差異を伝達する動機が生まれにくい。二人の若者は全く同じ情報の受け手である。二人は昨日のテレビの話をする。二人とも同じ番組を見ている。互いに何にどの程度感激したかを知らせ合えば、それ以上何かを伝達する必要はない。伝達の必要なないほどの情報を、若者が共有している。情報の過剰共有が、表現を不要にしている。"
”知的生命体がいれば交信に電波を使うだろうし〜、電波を観測して雑音ではないものを観測すれば、地球外生命体の存在を確認できる”と書いてある。確かにそうなのだが、通信手段は何も電波ではない。人類が使いこなせていないだけで重力波だってそうであるかもしれない。
"「遊ぶ」というのは異質なものとの出会いを楽しむことである。文章を書くうえで大切なことの1つは、この異質なものと出会いを楽しむこころではないかと思う。"
また、筆者は「遊ぶ」、つまり異質と出会うための方法の1つとして「歩く」を挙げている。最近(2022.12.17)歩くことが趣味になりつつある私にとってタイムリーな記述である。歩くことと文章を書くことは一見関係が無いように思える。しかし、例えば山の中を散歩していれば、非日常的な景色・動物・植物に「偶然」出会える。目的を持って歩くのではなく、歩くことを楽しむために歩くのだ、と筆者は言う。”異質の場所に身を置き、異質の時間を過ごすことで私たちは新たな発見を得る。”
良き文章を書くには、現場に赴き、よく観察し、それによって想起された自分の感情を素直に理解し、繕うことなく表現せねばならない。普段行かない場所をぶらぶら歩くことは、良き文章を書くために適した遊びなのである。次は仙台市内ではなく、どこか遠い場所に電車で行って自然の中を歩きくなった。
断定は格好いいが、正確な文章を書くためには、十把一絡げ的思考は常に排除しなければならない。「最近の若者は礼儀・作法というものを知らぬ。」と断定すればカッコは良いものの正確ではない。正確でない文章を良い文章と言えるだろうか。細部にまでこだわってこそ、真の優れた文章である。
老いは脚の衰えから始まる。身体の動きに関して、自分ができると思ってることと、実際にできることのズレが拡大してくる。自分がやりたいことが自由にできなくなる。極端な例として、寝たきりの人は毎日運ばれてくるご飯を食べる。つまり能動的に食事ができない。自己実現ができない。 (そもそも老人扱いすることも老いにつながるから、老人という言葉を使わない方がいいけど、便利なため使うことにする。) この本の中で、「自分のために使いたいお金がある」老人とそうでない老人を比較した時に、幸福度に有意な差が出たそう。もちろん前者の方が幸せ度が高かった。つまり、歳をとっても、何か目標がある人はその目標を成し遂げるためにお金を使いたいだろうし、その目標を通して「自己実現」できる。 これは自分の考え(目標ってキーワードには、「成長」も関連してると思う。脚の衰えから始まって、自由に行動できなくなった老人は、成長を諦める。本来、生きてる限り人間は不完全だから、死ぬまで成長できるのに。) 閑話休題 ここまで自己実現が老いを抑制し、幸福度を上げるキー要素だと言ってきた。しかし、自己実現というけれど、本当に自分がやりたいことをやってる人なんてほとんどいない。じゃあ自己実現ってなんなんだ? 人間は社会的な生き物である。世界に1人しかいなくなった人間が、自分のやりたいことを実現できたとしても、ただ虚しいだけである。 つまり、自己実現の先には、「誰かに認められる」ことがある。ということは、自分がやりたいことをやるだけが良い事ではなくて、他人に期待されてることを成し遂げることが重要なことである。そのためには、1人ではできない。誰かに期待されなければならない。 結論、老人を老人扱いしてはならない。自由に行動できなくなった老人は、特に、他者との関係が肝である。他者は老人に何も期待しないのではなく、老人のために何かを期待すべきである。その期待するものは、老人が達成可能なことでなくてはならない。
ファインマン図で確率振幅がどう計算されるのかを知った。元々は、今読んでいる論文で\bar{K}Nの束縛状態を作るためにK^{-}をpやdにぶつける時にI=0とI=1のpairの数が重要になるが、この数をどう計算してやればいいのかわからなかった。大西先生は真面目にamplitudeを計算しなければならないと言った。だから重い腰を上げて、ampの計算法を勉強しよう、よしまずはこの本で雰囲気を掴むぞ、という感じ。見事に目的は達成された。いい本。でも数学or物理が専門じゃない人たちは見てもわからなそう。